1934年の初版以来、アガサ・クリスティーの傑作ミステリー「オリエント急行殺人事件」は数多くの読者を魅了してきた。出版当時のロンドンタイムス紙の批評は次のとおりである。「ポアロの“小さな灰色の脳細胞”がまたしても解決不可能としか思えない難問を解決。クリスティーが現実にはありえないシチュエーションにリアル感をもたせることで読者を夢中にさせ、最後の結末まで答えを探し求めるわれわれを虜にする」。
この小説が出版された後、オリエント急行には、装飾豊かな客室やサービスを求める旅行者が途切れなくなった。クリスティーが本作を執筆したといわれるイスタンブールのペラパレスホテル(1892年開業の老舗高級ホテル。クリスティーやアーネスト・ヘミングウェイが宿泊)の411号室も観光名所となったほどだ。

もはや「神格化」と言っていいレベルの、アガサ・クリスティーの小説を映画化する。その権利を獲得することは容易ではなく、当初、別々に映画化権を交渉していたプロデューサーのマーク・ゴードンとサイモン・キンバーグはチームを組むことに合意した。さらにリドリー・スコットも加わり、5年がかりでようやく映画化権の獲得にこぎつけた。

脚本を任されたのは、リドリー・スコットの長年のコラボレーターであるマイケル・グリーン。プロジェクトの始まりを彼は次のように振り返る。「幸運なことに僕にとってのクリスティーの最高傑作が『オリエント急行殺人事件』だった。ポアロだけでなく周囲の登場人物も魅力的で、背景も豪華。結末も圧巻だった。そしてケン(ケネス・ブラナー)が監督とポアロ役に興味をもっていると知り、仮定でしかなかった僕の脚本が映画として実を結ぶと確信し、興奮したよ」。

ミステリーファンというだけでなく、列車マニアでもあるケネス・ブラナーも原作を敬愛しており、グリーンの脚本を読んだ彼は「マイケルの登場人物への熱意は明らかで、人々が想像する以上にこの作品がエモーショナルであることを示していた。魂を揺さぶるような悲痛さや喪失感、復讐などのテーマが観客を感動させるのだと理解できた」と、監督を引き受けた理由を告白する。

ブラナーを支えたのは、アガサ・クリスティーの親族だった。マシュー・プリチャード(クリスティーの孫)と、その息子で、クリスティー財団の会長であり、クリエイティヴ面にも影響をおよぼすジェームズ・プリチャードである。マシューによると「祖母は小説の舞台になる地域に旅をしており、シリアとイラクへ行く途中にイスタンブールに立ち寄っている。その結果、この小説は読者に信ぴょう性を与えることになった。本作は今でも独創性や結末で驚かせるわけで、1930年代の発刊当時のオリジナリティは計り知れない」とのことだ。

アガサ・クリスティーが創造した名探偵キャラクターのエルキュール・ポアロを、監督であるケネス・ブラナーが自ら演じることについて、彼は次のように説明する。「この物語では、ポアロが“監督”のように周囲の人物に指示を出している。個別の取調べで、事件解決のために欠くべからざる状況を作っているんだ。だから監督とポアロ役を兼任することは、同じ作業だと思えたよ」。そしてポアロの特徴について彼はこう付け加える。「ポアロはボディ・ランゲージを観察する天才だ。相手のテーブルマナーや、何を食べ残すか、さらにユーモアの使い方などを観察する。そして周囲の人々がその人物に抱く思い込みを逆手にとったりする」。

ブラナーの役作りは、ポアロが登場する小説すべて(長編33作と短編50作)を読破することから始まった。撮影開始の9ケ月前にはスーツや靴のための採寸が行われた。ネクタイ選びだけでも結び目や厚さが吟味され、3ケ月も試行錯誤が続いたほどだった。また、ポアロはベルギー人なので、ブラナーはポアロと同世代のベルギー人が話す、27種類ものベルギー訛りの英語の録音を聞き、週3回、コーチを受けてその訛りを習得。舞台公演中も、楽屋でスカイプを使ってコーチからセッションを受けたという。

ポアロというキャラクターのカギとなる要素といえば、クリスティーも「英国全土で最も目を見張る見事さ」と表現した口髭だ。ヘア・メイクアップ・デザイナーのキャロル・ヘミングはさまざまなサンプルや資料を持ち込み、クリスティーが小説で描写する「威厳があり、巨大な髭」を再現しようとした。ポアロにとって口髭は、人々を近づけない超能力のようなものだ。口髭自体が独立した構造と外見を有し、優美で強烈なインパクトを放つという前提で、数ヶ月かけてあのような大きさに行きついたという。

また、服の襟が曲がったり、ボタンが取れたりすることにストレスを溜めるポアロのために、完全にフィットするスーツや眼鏡、ステッキがデザインされた。過去の映画のポアロと一線を画すように、機敏な面も強調されたポアロには、ステッキを操る合気道の達人のようなアクションも取り入れられている。

殺害されるアメリカ人富豪のラチェットを演じるジョニー・デップは、「死、殺人、キャラクター、グラマラスな設定、旅の過程などアガサ・クリスティー作品に期待するすべてが詰まった作品」と本作を評する。「ラチェットのマフィアらしい大げさな振る舞いと、ギトギトした虚栄心が混じり合い、豪快なキャラクターになった。ポアロへのアンチテーゼ(正反対)であり、演じがいのある役だった」と彼は自身の演技を振り返る。

ケネス・ブラナーが「彼女の大胆さ、開拓者精神にはクリスティー自身が息づいている」と表現するのは、乗客の中でひときわ目を引くハバード夫人だ。演じるミシェル・ファイファーは、「ユーモアや軽いノリが方向転換して一変する。その瞬間に行きつく行程を演じながら積み重ねていった」と、演技のポイントを語る。衣裳デザイナーのアレクサンドラ・バーンは「ハバード夫人の衣裳がいちばん楽しく、チャレンジングだった」と振り返り、「彼女には“部屋に入って来る前から気配が感じられる”という描写があり、矛盾が多く、一定方向にとどまらないキャラクターの衣裳をめざした」と明かす。

原作とは異なる名前で登場するのが、宣教師のピラール・エストラバドス(「ポアロのクリスマス」という作品の人物から名前のみ拝借)。献身的だがミステリアスなこの役を演じたペネロペ・クルスは、「ピラールの顔の傷は、過去のトラウマの象徴でもある。そのトラウマが起こったとき、彼女はライフスタイルまで変えてしまったと思う」と、いつものゴージャスな魅力を隠して演じた事実を語る。この点を考慮した衣裳デザイナーのバーンは「衣裳倉庫から見つけた旅行用のキュロットを着てもらった。1930年代に女性がパンツを履くのは流行の先端で、ピラールが望む中性的なデザインも備えていた」と説明する。

若いキャストの中で最も注目を集めるのは、デイジー・リドリーだろう。家庭教師のメアリー・デブナムを演じる彼女は「監督との初めてのセッションで、道徳観について話し合ったの。撮影が進むにつれ、その道徳に関する疑問が変化していったわ」と、ケネス・ブラナーの意図を打ち明ける。そのブラナーは、デブナムのキャラクターとアガサ・クリスティーの共通点を次のように説明する。「文献によるとアガサは英国人女性で最初にサーフィンを習ったそうだ。その経験が彼女に冒険精神を与え、デブナムの人柄にも浸透していると考える。デイジーはそんな役柄を現代に見事に甦らせてくれた」。

ラチェットの秘書、ヘクター・マックイーン役のジョシュ・ギャッドは「脚本を20ページくらい読んで、エージェントに『キップ係の客室乗務員役でもかまわない。絶対にこの映画に出たい』と電話してしまった」と興奮した思い出を振り返る。ケネス・ブラナーの演出についても「俳優と同じ視点になってくれるから、われわれの不安感や自信喪失感なんかを理解してくれる」と称賛するギャッド。ドラゴミロフ公爵夫人の大女優ジュディ・デンチも「この映画の場合、キャスト全員が一緒に撮影を続けられたことが大きな喜びだった」と、チームとしての絆を実感したようだ。

「65mmフィルムで撮ることで、色やトーン、コントラストのレベルが高まり、言ってみれば人間の目を通して見たものに近づいた映像になる。観客もオリエント急行に乗せたくて、このフォーマットを選択したんだ」とケネス・ブラナーが語るように、本作の撮影には65mmフィルムが採用された。

製作総指揮のマシュー・ジェンキンスもこの選択をバックアップしたことを次のように説明する。「65mmフィルムを扱うことができるラボはロサンゼルスにしかないので、(撮影場所の)ロンドンからいちいち送らなければならない。その困難を考え、コダック社を通してロンドンにラボをオープンした。撮影現場では通常よりも多くの照明も必要となったが、たとえばイスタンブール駅を丸ごと作り出すチャンスも生まれた。このフォーマットのおかげで駅全体を細かくとらえられるわけだからね。65mmでは世界記録になるほど最長のステディカム・ショットも実現した。映画のラストシーンだ」。
この結末のショットに関しては、ケネス・ブラナーがこう付け加える。「ステディカム・ショットは、たぶん5分くらいの長さがあり、最後はカメラが地上30mの位置まで上昇する。非常に重い機材だったが、観客にポアロと同じことを考えさせる意味で、とても効果的だと判断したんだ」。

映画の冒頭に登場するエルサレムの嘆きの壁は、マルタ島で撮影されたが、多くのシーンが撮影されたのは、ロンドン西部にある、元防衛省の戦車実験場のロングクロス・スタジオだ。広大なスペースを利用して、イスタンブールのバザールや、実物大の機関車や客車のレプリカ、巨大な陸橋(山腹の高架橋)などのセットが作られた。

プロダクション・デザイナーのジム・クレイは、高さ10mの雪山のセットを作り、それをデジタルで拡大することになった。その雪山をバックに、クレイは200?300mにもおよぶ鉄橋を設計。橋の上に機関車など4台の車両がクレーンで持ち上げられ、立ち往生したオリエント急行が表現されたのだ。セットでは降雪にもリアリティを求めたと、製作総指揮のジェンキンスは説明する。「陸橋のセットには左右300mくらいの範囲で実際に雪を降らせて撮影した。カメラのフレームも雪で覆われたほどだ。さらにパウダースノーから、光を放つ雪、煙のように舞う雪まで、さまざまなタイプが必要とされ、列車の窓を雪が無音で通り過ぎるように、複雑なダクト・システムも開発されたんだ」。

ロングクロス・スタジオで最も広いサウンドステージに作られたのは、イスタンブール駅のセットだ。2本の線路とプラットホームも実際に作られ、線路はサウンドステージの巨大なドアを抜け、外の駐車場まで延ばされた。そのおかげで列車の全車両が駅を出発するシーンが可能になったのである。

「本物のオリエント急行に乗車し、車内で撮影が可能かどうかを確かめた」と語るのは、プロダクション・デザイナーのジム・クレイ。「65mmのカメラとドリー・トラックは車内で使えないと判断し、外観も含めて車両を制作することになったんだ。まず始めに線路の上で実際に動かせる車両と機関車を作り、車内のセット用にもうひとつ同じものを作った。車内用は、撮影の自由が利くように壁や天井を取り外せるようになっている」。

特殊効果スーパーヴァイザーのデヴィッド・ワトキンスは、スイスに現存する唯一の「484列車」を基に、オリエント急行の機関車と炭水車、保存車、客車、食堂車にサロン・カーを作り上げた。各車両の重量は約25トンで、2?3台のディーゼル入換車が取り付けられ、列車を動かしたという。車両からは実際に蒸気が上がり、セットにはエンジンの匂いも充満した。

窓の外の風景のためには、ニュージーランドの山岳地帯で撮影された映像が使われた。視覚効果スーパーヴァイザーのジョージ・マーフィーはその映像をデジタル化し、車両の両側に立てられた400個のLEDスクリーンに映し出した。さらに車両の下部には送風機と油圧機械が組み込まれた。ソフトウェアによって車内の空気を揺らしたり、列車を左右前後に振動させたのである。キャストたちも「実際に列車が動いているようだった」と口を揃える。この効果を製作総指揮のマシュー・ジェンキンスは次のように説明する。「車両の中に立ち、窓に左から右へ風景映像が流れるのを見たときはシュールな気分だった。止まっているエスカレーターを歩いて上る時の感覚に似て、少し乗り物酔いもした」。

「現在のオリエント急行の室内はアールヌーボーのデザインだが、木製パネルや装飾でアールデコに近いスタイルを選んだ。過剰に華やかにしないことで、観客にストーリーに集中してほしいからだ」と語るのは、プロダクション・デザイナーのジム・クレイ。とはいえ、65mmフィルムがとらえる細部にまで美術チームの神経は行き届いており、食堂車のナプキンに至るまで趣向がこらされている。こだわりの装飾と小道具によって、われわれ観客も、オリエント急行の乗客になった気分を味わえるはずだ。